日揮は、なぜホスピタルアートに本気になったのか。「元気になったら、本物を見に行こうね」──“会話が生まれる場”を設計するということ【EDGE】

病院に求められるのは、機能性、安全性、衛生性。
そうした前提が強い場所で、「アート」を実装しようとする企業がある。国内を代表するプラントエンジニアリング企業、日揮株式会社だ。しかもその狙いは、空間を華やかに見せることではない。患者や家族、医療従事者が感情の負荷を抱える場に、思考や対話の余白をつくること。そのために同社は、大阪医科薬科大学病院で“対話型”のデジタルアート展示を形にした。
シンクタンクで原子力や安全保障、海外進出支援など、社会の複雑な課題に向き合ってきた橘翔子氏は、なぜ今ホスピタルアートに挑むのか。そこには、「人がどう過ごすか」を環境から捉える一貫した視点があった。
Index
「人がどう過ごすか」を工学的に紐解く。原子力、安全保障を経てアートへ
金澤
橘様のこれまでのご経歴から伺えますか。大学時代はどのようなことを学ばれていたのでしょうか。
橘様
京都大学の工学部で、都市環境工学を学んでいました。たとえば、鴨川で何メートルおきにカップルが座るのか、スターバックスの外の椅子をどう並べれば心地よい空間になるのか、といった、「人が空間の中でどう過ごすか」を考える学科です。
その後、英国系のシンクタンクに入り、原子力に関するテーマに取り組みました。高レベル放射性廃棄物の地層処分のように、極めて長い時間軸で安全性を考えなければならないプロジェクトで、どういうITシステムや概念設計にすれば後世の人にも伝わるのか、ということを考えていました。
金澤
非常に難度の高いテーマですね。
橘様
そうですね。ただ、その頃から、難しいテーマを社会に伝えるときには、論理だけでは届かないことがあると感じていました。海外の事例では、トップにアーティストが入って、文脈を噛み砕いたり、絵で伝えたりしていたのです。私にとってアートとビジネスの接点を強く意識したのはその頃でした。
その後、日系のシンクタンクに転職し、福島復興や海外進出支援などのコンサルティングにも数多く携わりました。そして、縁あって日揮に入り、現在は新規事業開発に携わっています。
金澤
アートそのものとの出会いは、もっと以前からあったのでしょうか。
橘様
ええ。母も叔母も祖母も絵を描いたり、ギャラリーを運営していたりと、幼い頃からアートに触れる機会は多かったです。祖母の介護が必要になったとき、母が最期まで自宅で看取ったのですが、庭の花がいちばんきれいに見える向きにベッドを動かしたり、季節が感じられるように工夫したりしていました。それは母の努力の上に成り立っていたものだったと、今は思っています。
そうした原体験もあって、アートがある空間だと人はよりウェルビーイングで過ごせる、という感覚は私の中に自然とありました。
金澤
日揮に入られてから、数あるテーマの中でホスピタルアートに関心を持たれたのはなぜだったのでしょうか。
橘様
日揮に入った時点で、「これをやる」と決まっていたわけではありませんでした。デジタルを使って新しい事業をつくってほしいというミッションがあり、一定期間、さまざまなテーマを調べていたのです。私自身、ありたい未来を描いて、そこからバックキャストするような事業をつくりたいと思っていました。
その中で、日揮にはヘルスケアソリューション部があり、約40年にわたって300件ほどの病院新設や建替え、その後の運営事業にも関わってきた実績があります。病院の中で患者さんやご家族、医療従事者がどんな気持ちで過ごしているのか、現場に近い人間が多い会社なのです。
今回の取り組みも、日揮のメンバーが本館建替えのプロジェクトマネジメントを担っていた病院で、理事長や学長の方が「アートを絶対に入れていきたい」と強くおっしゃったことがきっかけでした。私自身の原体験と、会社として持っていた現場理解が、そこでつながった感覚があります。

病院という制約を、デジタルで本格的な鑑賞体験に変える
金澤
ホスピタルアートとは何か、簡単にご説明いただけますか。
橘様
ホスピタルアートは、病院という場にアートを取り入れることで、患者さんやご家族、医療従事者が過ごす環境をより良いものにしていこうという考え方です。絵画を飾るだけでなく、椅子の並べ方や空間の在り方そのものも、私はとても重要な要素だと思っていて、そうしたものすべてを含めてホスピタルアートだと捉えています。
取り組み自体は、日本でもたくさんありますが、その中で本格的にキュレーションされ、ディレクションされているかというと、クオリティが高いものとそうでないものが混在しているのが現状かなと思っています。
アメリカやイギリスなどの病院を調べていただくと、アートのクオリティがやはり高いのですよね。「1%フォー・アート(Percent for Art)」のような制度もありますし、人々が生活するすべての場所にクオリティの高いアートを取り入れることは、諸外国では当たり前のこととされています。日本でも、病院に携わる方の中で同じように考えている方は決して少なくないはずですが、経済性などさまざまな事情の中で、なかなかクオリティを担保できていないのが実情ではないでしょうか。
※1% フォー・アート(Percent for Art)──公共建築の建設費の1%程度をアート作品の設置に充てる制度。1930年代にアメリカで始まり、欧米各国に広がった。
金澤
今回の日揮の取り組みについて、具体的にお伺いしたいです。御社では2025年7月、大阪医科薬科大学病院の本館エントランスに、絵画のデジタル画像をアバターと対話しながら鑑賞できる常設展示を納入されています。あらためて、橘様が考えるホスピタルアートとは何でしょうか。
橘様
病院にアートを入れる取り組み自体は以前からありますが、私はホスピタルアートを、単に絵を飾ることだとは思っていません。絵画そのものはもちろんですが、椅子の並べ方や空間の在り方、どこで人が立ち止まり、どこで少し気持ちをゆるめられるかまで含めて設計するものだと考えています。
金澤
その考え方が、今回の大阪医科薬科大学病院での実装にも反映されているわけですね。具体的には、どのような空間になっているのでしょうか。
橘様
今回の展示は、本館エントランスの一角に設置しています。会計待ちや入院手続きの待ち時間など、多くの方が過ごす場所ですね。そこに9枚のサイネージを組み合わせた大きなパネルを設置し、美術館にあるようなソファも配置しています。
総合受付は木の根っこをイメージしたデザインになっていて、入院手続きなども行われる場所です。入院前は、患者さんもご家族も不安を抱えていたり、いろいろな感情があったりすると思うのです。そうした中でも、少しでも落ち着ける空間でアートを見ていただけるようにしています。


金澤
今回の特徴の一つが、「対話型」のデジタルアートだと思います。この点についても詳しく教えてください。
橘様
対話型アート鑑賞は、1980年代にニューヨーク近代美術館で生まれた鑑賞の考え方です。さまざまな国籍や価値観を持つ方が訪れる場所だからこそ、できるだけシンプルな問いかけを通じて、誰もが作品に入っていけるように設計されたものだと理解しています。
知識がある人だけのものではなく、誰もが自分の感覚で作品に向き合えるのが特徴です。最初から解説を読むのではなく、「何が見えますか」「どこが気になりますか」といった問いかけを通じて、まずは自分で考えながら見ていく。そのあとで作品や作家についての解説に触れていく流れになっています。
今回は、大原美術館の公式図録にある解説からエッセンスを取り出し、できるだけわかりやすい形で提示しています。リアルに作品を見る体験ももちろん素晴らしいのですが、なかなか足を運べない方も多いと思います。その意味で、デジタルを通じて疑似的でありながらも本格的な鑑賞体験を届けられるのは、一つの価値だと感じています。デジタルで映し出すことで、実物よりも光がよく当たり、細部が見やすくなるという副次的な効果もありますね。
金澤
最初から解説が書かれているのではなく、まずは自分がどう受け取るかがポイントになるのですね。
橘様
そうですね。アートの見方に正解はありませんし、「知識がないといけないのでは」と思っている方にとっても入りやすい方法なのかなと思います。

ホスピタルアートは起点に過ぎない。収益性と社会貢献を両立させる、新規事業としての勝算
金澤
病院はもともと制約の多い環境だと思います。なぜ、最初の実装先として病院を選ばれたのでしょうか。
橘様
先ほどもお話ししたとおり、私自身の中に、「アートがあると人はよりウェルビーイングに過ごせる」という感覚がずっとありました。
一方で、諸外国では、人々が生活するさまざまな場所にクオリティの高いアートを取り入れることが比較的当たり前になっています。病院も例外ではありません。そうした考え方を持つ方は日本にも少なくないと思うのですが、実際には、本格的にキュレーションされ、コンセプトまで設計されたアートが十分に実装されているとは言いがたい状況だと感じていました。患者さん、ご家族、医療従事者と、多くの方が感情的な負荷を抱えやすい場所だからこそ、本来は価値があるはずなのに、そこがまだ十分に形になっていない。そのギャップが大きかったのです。
また、病院は衛生面や安全面など、さまざまな制約がある空間でもあります。だからこそ、デジタルであれば導入しやすい可能性があると考えました。作品の更新もできますし、新しく建設される病院にも組み込みやすい。制約が大きい場所だからこそ、デジタルとの掛け算に意味があると思ったのです。
金澤
一方で、これは事業として成立させる必要もあります。
橘様
会社として取り組む以上、収益性は追わなければいけません。同時に、企業価値の創出も目指す必要があります。病院から対価をいただくモデルはもちろんありますが、実際にやってみて見えてきたのは、病院以外にもこの価値を受け入れてくださるお客様がいるのではないか、ということでした。
ホスピタルアートは、あくまで起点だと考えています。そこからさらに広がっていく可能性がある。実際、経済産業省の「ART & BUSINESS AWARD」でファイナリストに選出していただいたこともあり、外部からの評価という意味でも、企業価値創出につながっていると感じています。
金澤
病院という場所で実績をつくること自体に、意味があるわけですね。
橘様
そう思います。機能性が最優先される空間に、精神的な価値をどう実装するか。それを病院で成立させることができれば、他の業界にも展開しやすくなるはずです。
たとえば、同じ医療領域でも介護施設には大きな可能性があると感じています。海外では、認知症の方に美術館のチケットが処方されるような事例もありますし、思考のゆとりや対話を生み出す価値に注目が集まっています。実際、対話型鑑賞によって、これまであまり話さなかった方が言葉を発するようになった、という事例もよく聞きます。
これは、人的資本経営の観点からも重要なテーマだと考えています。役職が上がるほど、日々の業務で求められる判断のクオリティは上がりますし、心理的安全性をどう担保するかという課題もあります。心理的安全性は、日揮の中でも非常に大切にされている考え方です。
無機質な環境にいると、どうしても正解に近い答えや無難な答えを探してしまいがちです。そうではなく、「前提条件はこれでいいのか」「本当に求められているのはここなのか」と一歩引いて考える──そうした思考の余白を空間の中に実装できるのが、アートの持つ力なのだと思います。
作品の色味や印象によって、人の気分や思考の向き合い方が変わることもあると思っています。たとえば、青みの強い作品と赤みの強い作品では、見たときに呼び起こされる感覚も違う。だからこそ、どんな場で、どんな作品を、どう見せるかが大事になるのだと思います。

綿密なマーケティングと認知プロセスが生んだ、ノイズのない空間設計
金澤
プロジェクトを進める中で、現場ではどのような反応がありましたか。
橘様
病院の中で、ここまで本格的なミュージアム体験ができるものは初めてでしたので、かなり緊張しながらローンチしました。患者さんにとってよい効果があればうれしい一方で、もしマイナスの反応があったらいけない。そこは本当にドキドキしながらの展開でした。ただ、ありがたいことに、実際に始めてみるとネガティブな評価はほとんどなくて、「早く次の作品が見たい」といった声も届いています。
金澤
うれしい反応ですね。心のよりどころになっているようにも感じます。一方で、設計面で苦労された点はありますか。

橘様
どんなアートが病院にふさわしいのか、最初から正解があったわけではありません。仮説を立てながら、一つずつ検証していった感覚です。著作権をきちんとクリアすること、解説は公式図録に則りつつ、難しすぎない日本語で提示すること。そういった細部を丁寧に詰めていきました。
また、このテーマは即効性が見えにくいからこそ、価値の伝え方も含めて設計する必要がありました。そこで今回は、電通さんやカルチュア・コンビニエンス・クラブさんとご一緒して、対外的なコミュニケーションまで含めて考えました。病院という場所にふさわしい、品のある露出の仕方を提案段階から意識していたのです。
金澤
ホスピタルアートを置くだけではなく、その価値をどう伝え、どう受け入れていただくかまで設計していたわけですね。
橘様
たとえば、ご一緒したクリエーティブディレクターの若林さんはマーケティングの専門家で、大阪エリアにお住いの70代の女性に最も届きやすいものとして大原美術館の作品を選ばれました。実際、学長や理事長の方々からも「若い頃に行ったことがある」といった反応があり、しっかり刺さったのです。つまり、有名だから選ぶのではなく、その場にいる方にとっていちばん受け入れやすいものは何か、という観点で考えていたということですね。
実際、展示の前では患者さんやご家族の間から「元気になったら、本物を見に行こうね」といった会話も自然に生まれていました。デジタルで作品に触れたことが、いつか美術館へ足を運ぶ動機にもつながっていく。東京の病院で展開するなら、また別の美術館が選択肢になり得るとも感じています。
金澤
そこにいる方々にとって、いちばん自然に引き寄せられるものを選んでいたと。
橘様
はい。カルチュア・コンビニエンス・クラブさんにも美術に強い専門チームがいらっしゃって、大原美術館が所有する約3,000点のデジタルコンテンツの中から、公式図録に解説がある120点を候補にし、そこからある程度のロジックを持って選んでいただきました。
しかも、見せ方も工夫しています。いきなり抽象度の高い作品から入るのではなく、人物画や睡蓮のような比較的わかりやすい作品から始めて、ピカソのような幾何学的で抽象度の高い作品へと少しずつ進んでいく構成にしました。大阪医科薬科大学は学校法人でもあり、「人を育てる」という考え方も根強くお持ちなので、そうした認知のステップも意識した設計になっています。
金澤
なるほど。いろいろな方の経験や知見の上に成り立っているのですね。
橘様
そうですね。加えて、見る人にどう受け止められるかもかなり考えました。たとえば石膏像をモチーフにしたビジュアル一つとっても、インパクトはありつつ、ジェンダーに寄りすぎず、中性的で、ノイズにならない存在にする必要がありました。実在する誰かを想起させるのではなく、少し哲学的で、ニュートラルで、見る人の思考を邪魔しないこと。作品の並びやビジュアルのトーンも含めて、すべてを「その場にいる人にどう届けるか」という観点で設計していました。

AI時代にこそ、人間らしいインサイトを。意思決定の質を高めるための余白の価値
金澤
ここまでお話を伺ってきて、今回の取り組みは単に病院にアートを入れるという話ではなく、人がよりよく考え、対話し、判断できる環境をどう設計するか、というテーマにもつながっていると感じました。少し観点を広げて、事業開発や組織開発に関わるマネージャー層の方々に向けて、「環境を設計する」という観点で大事にすべきポイントがあれば教えてください。
橘様
不確実な世の中では、戦略をデータに基づいて立てるところまではできると思うのです。ただ、その先には、どうしても高度な判断が必要になってきます。私自身も事業開発に携わっていますが、最近はAIが台頭してきて、プロンプトを打ち込めば事業計画書のようなものも、組織に関するアイデアも、いくらでも出てくる時代になりましたよね。
ただ、それを実際に現場へ投入して機能するか、市場に出して本当に受け入れられるかというと、それはまったく別の問題だと思っています。大事なのは、自分自身の経験であったり、他の方との対話の中で得られるインサイトであったり、そうしたものなのだと思います。
金澤
新規事業を形にしていく上でも、やはり対話を重視されていたのでしょうか。
橘様
そうですね。社内の方との対話、社外の方との対話、ベンダーの方との対話、そうしたやり取りを重ねる中で、「きっとこうすればうまくいくだろう」という形が少しずつ見えてきました。
また、医療のエキスパートジャッジメントを常にされている方から、「このエントランスにはこのアートがいい」といった判断をいただいたことも大きかったですね。最初から完成形があったわけではなく、対話の中で磨かれていった感覚があります。
金澤
AIで収集できる情報は、ある意味では一般化されたものです。一方で、本当に現場を動かそうとすると、目の前にいる方が何を大事にしているのか、どんな情報を持っているのか、どういう判断軸で見ているのかを、丁寧に捉えていく必要があるわけですね。
橘様
そうですね。AIは過去にある情報を調査し、整理していくという意味では非常に有効なツールだと思います。ただ、未来に向けて一歩踏み出してみるところは、まだAIだけではなかなか難しいのかなと思っています。
だからこそ、人がどう感じるのか、どんな場であれば思考や対話が生まれるのか、そうしたことまで含めて環境を設計していくことが、これからますます大事になるのではないでしょうか。
金澤
本日は、ホスピタルアートを入り口にしながら、人の思考や対話、意思決定を支える環境とは何かについて伺ってきました。橘様、ありがとうございました。
橘様
ありがとうございました。
※参考:
日揮ホールディングス株式会社「日揮がPMCを務めた大阪医科薬科大学病院新本館がグランドオープン」https://www.jgc.com/jp/news/2025/20250929_11.html
大阪医科薬科大学「バイオフィリアホスピタルアート」 https://www.ompu.ac.jp/maintower/biophilia.html

京都大学工学研究科修了。博士(学術)
英国系・日系シンクタンクを経て日揮に参画(現在は日揮ホールディングズに在籍)。

日本国内におけるエネルギートランジション、ヘルスケア・ライフサイエンス、産業・都市インフラ、資源循環分野の各種プラント、施設のEPC(設計・調達・建設)事業に注力。

アクシスコンサルティングは、コンサル業界に精通した転職エージェント。戦略コンサルやITコンサル。コンサルタントになりたい人や卒業したい人。多数サポートしてきました。信念は、”生涯のキャリアパートナー”。転職のその次まで見据えたキャリアプランをご提案します。



